盆栽の盆とは、本来、皿ような平らな土器のことをいいます。そこに、樹木や石などを置いたものを中国では12世紀半ばから「盆山」や「盆仮山」と称していました。鎌倉時代から交流があった中国と日本の禅僧の間で、おそらく盆山は共通の趣味であったと言われている。それは当時の日本の禅僧が、盆山、盆仮山、盆石、盆松を誌題にしていることから推測されています。現在の盆栽の原型と見て分かる最古の絵は、鎌倉時代の延慶2年(1309年)に完成した絵巻「春日権現験記絵」にある。春日大社への参拝を機に出世した男の屋敷のか、石に植えられた松の「石付き」と、盆に石を置いた水石が描かれています。室町初期の禅僧の文書には「盆栽」の言葉が気されているそうですが、一般に使われ始めたのは、江戸時代以降だといわれている。
江戸時代に入ると、盆栽を愛好する者が増えてきます。椿をこよなく愛した徳川家康と2代秀忠は、江戸城内に御花畑を作らせています。その意を継いだ3代家光は、盆栽、特に松を愛したそうです。家光遺愛と語り継がれる松の盆栽が、今も皇居に伝えられているそうです。大名は、領地に育った珍しい草木を、競って将軍に献上したとのこと。美麗な鉢、御庭焼を作らせ、その鉢に珍品の草木を植えて贈ったそうです。
そして、江戸や大阪では、町人の文化の一つとして、盆栽が広まっていきました。その様子は、京保年間(1716~36)以降の数多くの浮世絵にも描かれています。儒学や漢学を学んだ高識者、文人は、中国趣味の煎茶の手前の際、床に盆石や盆栽を飾ったという。文人画好んだ細い幹のしゃれた感じのする盆栽は文人木と呼ばれ、今も盆栽の樹形のひとつとして受け継がれています。
また、幕末頃から、盆栽を鉢植えを明確に言い分けるようになってきました。明治に入っても、文人趣味の盆栽は新政府要人の支持を得て盛んであったそうだ。明治25年(1892)東京・本郷で盆栽陳列会が開かれ、同年、盆栽についての初の研究論文が発表されました。以降、技術と理論の両面から盆栽の質の向上が進み、盆栽美術や盆愛芸術といった言葉が使われ始めました。
初めて一般公開の展示会が開かれたのは昭和2年。翌年、現在、最も権威のある「国風盆栽展」の前身となる展示会が開催されました。こうした展示会で刺激を埋めた愛好家が、次々と第一級の盆栽を作り出し、源歳の盆栽に至っています。