18代中村勘三郎さんが2012年12月5日に57歳で死去しました。
1955年5月30日に生まれ、4歳で中村勘九郎を襲名して初舞台を踏む。
子役時代からヤンチャぶりは知られ、出演した映画から「ベビーギャング」と呼ばれたこともある。
その後、古典とともに現代感覚あふれる新しい作品に挑み、歌舞伎人気をリードした歌舞伎界のスーパースターでもあった。
当たり役に
『春興鏡獅子』の獅子の精
『梅雨小袖昔八丈(髪結新三)』の髪結新三
『鰯売恋曳網』の猿源氏
『隅田川続俤』の法界坊 などがある。
テレビなどにも出演し、芸能界の交友も広く、その人柄にも魅了された。
中村勘三郎さんの年譜
2004年7月、ニューヨーク市リンカーンセンター内に、平成中村座を設営して『夏祭浪花鑑』を上演。演出に串田和美を迎え、幕切れでは花道から続々と出てくる目明かしの代わりにニューヨーク市警の警官たちを舞台奥からパトカーで登場させ、団七・徳兵衛にピストルの銃口を一斉に向けて「フリーズ!」とやって観客を驚かせた。
ニューヨークタイムズ紙は「(当時上映中の)大作映画よりはるかに刺激的で面白い」と絶賛した。12月、歌舞伎座上演の渡辺えり子脚本・演出による『苦労納御礼・今昔桃太郎』(くろうの かいあり かんしゃ かんしゃ・いまはむかし ももたろう)の桃太郎で五代目勘九郎としての舞台納め。初舞台作品を洒落のめした舞踊劇。
2005年3月3日、歌舞伎座『鬼一法眼三略巻』「一條大蔵譚」の一條大蔵卿長成、『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋」の佐々木盛綱ほかで十八代目中村勘三郎を襲名。以後5月まで3ヵ月間にわたる襲名興行は当代市川團十郎以来の事。
2006年、前年の定期公演主体の襲名披露を終え、この年は巡業公演で各地を襲名披露に訪れる。愛媛県の内子座、岐阜県の数箇所など、昔ながらの芝居小屋を活用。名古屋では、名古屋平成中村座も開設。歳末に京都南座顔見世興行で一連の襲名興行を打上げる。
2007年7月、平成中村座ニューヨーク公演。今回はリンカーンセンターのエイヴリー・フィッシャー・ホールの内装を芝居小屋風にして上演。演出は再び串田和美で、『隅田川続俤』(法界坊)を科白の一部を英語で廻したり、花道は設けずに通路のそこかしこを駆使した工夫を凝らした演出が好評だった。
2010年暮れに特発性両側性感音難聴を発症して漸く休養[2]、2011年7月24日に長野県松本市のまつもと市民芸術館での特別公演で舞台に復帰。
2011年11月から2012年5月にかけ、自身の長男:中村勘太郎の六代目勘九郎襲名披露舞台を含む平成中村座ロングラン公演を成功させた後に受けた健康診断で、初期の食道癌に罹患していることが判明した為、年内の演劇活動を停止して2012年6月18日に療養に専念することを発表した。
7月27日に食道がん摘出手術を実施。9月に肺疾患が見つかったことを11月13日に、松竹・所属事務所の連名で発表[5]。その後も闘病生活を続けたが、同年12月5日の午前2時33分に急性呼吸窮迫症候群のため死去した。57歳没。
※年譜はウィキペディアより引用